古 川 勝 巳年 譜 |
年号 | 年齢 | 主なできごと | 配給した映画 |
1914年 (大正3年) |
0 | 9月21日、古川爲三郎、志まの長男として生まれる。(後年、一己から勝巳に改名) |
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父・古川爲三郎は大正三年、貴金属の「古川商店」出張所を東京・馬喰町に設けた。大正六年の秋には、東京のど真ん中、銀座四丁目鳩居堂の一軒おいて隣の土地、建物を購入し、貴金属一切の卸商「古川東京支店」の看板を掲げるまでになっていた。 勝巳の東京暮らしは、大正六年(1917年)から大正十二年(1923年)までの六年間という短い期間だが、幼時の東京暮らしは、みるみる、都会の文化を吸収させ、名古屋へ帰っても「いつか東京へ出たい」という気持ちをかきたてさせる材料になっていた。 |
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1921年 (大正10年) |
7 | 爲三郎は初めて映画館の経営に乗り出す。名古屋の中心繁華街として栄えた大須に太陽館を共同経営したのが始まり。それまでは貴金属卸しのほか料理屋、旅館、カフェーなど"日ゼニ"のかせげる商売も小規模ではあるが手を染めていた。 だから大須太陽館が、日本ヘラルド映画の礎ということができる。戦前までは太陽館など9館を経営していた。 |
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1923年 (大正12年) |
9 | 小学校3年(東京・橋本小学校)の1学期まで東京におった。9月1日関東大震災、夏休みで名古屋に帰省中で難を免れる。 | |
1924年 (大正13年) |
10 | 関東大震災を境に父の経営する「古川商店」が東京の店をたたむ。 名古屋・南久屋小学校へ転入。この頃は東京弁が抜けなくて今で言ういじめにあっていた。黙って負けてばかりいられないから、いじめの親玉を待ち伏せてやるんだ。そんなことで、ずいぶん反抗心強くなったと思っとるよ。 おばあちゃんからも「けんかに負けちゃいかんぞ。もういっぺんやってこい」っていつもけしかけられていたね。 父の商売も貴金属卸しから映画館とか興行の日銭が稼げる商売に移行してゆく。 |
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1925年 (大正14年) |
11 | 映画になじんだのは名古屋に移ってからで、中央館という映画館によく出掛けたという。 小学校のときは、さすが、やんちゃ坊主でも番頭さんの保護者付き。大須の世界館、千歳劇場など、その番頭さんの好みの映画館、作品が多かったかもしれない。 |
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1927年 (昭和2年) |
13 | 中学(惟信中=現・惟信高)に入っても学業の方は相変わらず目立たなかった。運動はよくやった。一年生では野球にもちょっと首をつっこんだ。 二年生では相撲部員、小さいから今の私からは想像できんでしょ。正式な部員だったし、選手だったですよ。 中学の時は大らかに遊んだ。隠れて玉突きに行ったり、タバコもやった。 |
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1928年 (昭和3年) |
14 | 中学に入ってからは映画館に学校友達とあるいはひとりで出入りするようになった。邦画、洋画の区別なく、学校の帰りがけは毎日立ち寄り、むさぼるように見たという。父の経営する映画館だけでなく、市内の劇場は「古川の若さん」で顔パスだったという。 「父のあとを継ぐ」という意識もあっただろうが、生来の映画好きだったのもたしか。 どんな作品が好みだったのか、「ルネ・クレールが好きだったね」。ひいきの俳優は、「エミール・ヤニングス」「ベティ・アーマン」。 |
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1931年 (昭和6年) |
17 | 大学は東京の六大学のどこかに行きたかったですね。神田で小学校の三年までいましたからね。 名古屋高商(現・名古屋大学)に入ったけど、そのころは、商売人の息子は勉学に重きを置かなかったですね。 でもね、学業の方はおろそかにしてたんだが、目に見えないところで精神だけは鍛えていたんだと思ってますよ。 |
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1932年 (昭和7年) |
18 | 大須の「太陽館」の軌道が乗ると、続いて大須の娯楽街に「帝国館」「帝国座」を大正11、12年にかけて建てていた古川爲三郎は、昭和6年までに2館の映画館を建設していた。北区平安通りの「富士劇場」、もう一つは、千種区今池の「今池劇場」。 この年の暮れには大須に「大勝館」の建設を始める。 大正13年に開業した大須の「肉なべ屋」を「資生堂パーラー」という、しゃれた軽食喫茶に改造し、さらに、これを拡張しようという準備に入っていた。 |
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1933年 (昭和8年) |
19 | 私の初仕事は映画ではありませんよ。まだ、名古屋高商の学生だったときに、おやじから喫茶レストラン「資生堂パーラー」を任されたんだ。昭和8年のことですよ。場所は戦前の盛り場ナンバーワンの大須でね。 「映画館をやりたい」と言ったんですがね。ダメだって。「若いんだから、もっと汗水たらして働く仕事でなけりゃいかん」と言われましてね。 店は大須・太陽館の西隣の二階建て、大理石を使って、まあ、「近代的欧風喫茶」という趣き。一流店にくらべれば勿論安い値段で、料理もサービスも一流店の気分が味わえるという営業方針でやってみたんですよ。 大須の「大勝館」は勝巳の「映画をやりたい」という望みを叶えさせようとするものであった。それは映画製作を志す勝巳の意志とは必ずしも一致しないものであったが、それが爲三郎にできる愛情の示し方だったようだ。 こうして名古屋高商2年、現在流で言えば、大学1年生という年齢、まだ在学中の学生に、古川爲三郎は二つの仕事を任せた。映画館主と食堂主である。 |
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1936年 (昭和11年) |
22 | "大須店"の好成績に気をよくして3年後には鶴舞公園にお店"公園店"を出したんですよ。学校の生徒や先生、それに画家なんかも来てくれ、大いに繁盛しましたよ。 でもね、戦時中の物のないときはやはり往生しましたわ。「ぜいたくは敵だ」って言われてね。とくに18年から20年は売るものがない。国民全体が配給制によって統制されてしまうのですからね。 |
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1939年 (昭和14年) |
25 | 俊子夫人と名古屋若宮神社で挙式。 ティールームとして名古屋最高の評価をうけた"赤門店"開店。 |
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1940年 (昭和15年) |
26 | 長男、爲一郎が誕生。(生後まもなく死亡) | |
1941年 (昭和16年) |
27 | 長女、隆子が誕生。 | |
1944年 (昭和19年) |
30 | 次男、爲之が誕生。 (ヘラルドコーポレーション社長、日本ヘラルド映画二代目社長) |
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1945年 (昭和20年) |
31 | 映画館は大いに様変わりしてしまってね。うちの太陽館は漫才の小屋になってたよ。9館のうち戦災により残ったのが2館。復興には体を捨ててぶつかっていったよ。 喫茶レストランは空襲により全店焼失。 |
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1946年 (昭和21年) |
32 | 三男、博三が誕生。(憲次郎から改名) (日本ヘラルド映画三代目社長) 名古屋駅前に洋画専門館、メトロ劇場開場。 |
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1947年 (昭和22年) |
33 | 資生堂パーラー"広小路店"復興開店。 |
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1950年 (昭和25年) |
36 | 名古屋広小路にミリオン座開場。 |
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勝巳は飲食店にも熱心で、ジャズライブのあるレストラン「グリルUS」という店を名古屋でやっていた。 そこで、俳優デビユー前のフランキー堺が出演していた。その縁で、話題作りの面はあるにしろ、堺は後にヘラルドの初代宣伝部長、役員を歴任した。 |
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1956年 (昭和31年) |
42 | 映画の製作、配給、興行の目的で名古屋市に『欧米映画配給社』の商号を以て創業。 名古屋に映画の配給会社をつくったのは私が42歳のときでした。新しい仕事をすることからすれば、この年齢は遅いといえば遅いでしょうね。 古川勝巳はミリオン座の近くに事務所を作った。父爲三郎に「どうしても映画製作をやりたい。そのためには、まず、配給会社を創立し、外国の映画の輸入、配給をやる・・・」と懇望した。 このとき、配給会社はすでに「欧米映画」という名前で、社員4人を抱えて発足していたのである。つまり事後承諾であった。 勝巳は、学生時代から「映画作家」「製作、演出者」になる夢を持ちつづけた。少年のころ東京で育ち、このとき身につけた都会文化をひたすら温めつづけ、ロマンチックな人間に成長していたのである。 この時代は長編なんて1本もない。短編ばっかり扱っているから"短編屋"っていうんだ。短編を扱っていて、町内会の催しや学校の校庭などで3本まとめての上映だったりした。その日の売り上げが3万円、4万円といった小さな商売だった。 ちょっとも商売にならせん。毎晩、どうしたらいいか考えてて、眠れません。 このころの勝巳には、「東京に行きたい。東京でなければ日が当たらない」というおもいが日増しに強くなってきていた。 |
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1957年 (昭和32年) |
43 | 商号を『ヘラルド映画株式会社』に変更し、企業規模を拡大。 本格的な長編映画を扱いたいという思いから、「ヘラルド」=「先駆者」「魁(さきがけ)」を思いついたんですね。 資生堂パーラー、サンロード店・栄地下街北店開店。その後万年坂・池下店・千種店・今池店・メイチカ店・シネラマ店・メトロレコードメイチカ店開店。 |
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1958年 (昭和33年) |
44 | ヘラルド映画株式会社の本社を東京・西銀座(東京都中央区銀座西1-5銀一ビル2階)に移す。1階が株の売買で有名な「大番」のギューちゃん(赤羽丑の助さん)のところ。スポーツ店でしたね。 これまでは短編でお茶をにごしてきた会社だが、連日の役所詣で、輸入割り当ての本数を増やすことに奔走した。 大蔵省による映画輸入本数割り当て2本。 |
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1959年 (昭和34年) |
45 | この頃、洋画はアメリカ、イギリス、フランス、イタリアが映画先進国です。だが、そんな国からの映画は力のないうちなんかにはまわってこない。 金もなければ、まして力のない小さい配給会社がスタート時点で手に入れたのはポーランド映画「影」とメキシコ経由で買ったアメリカ映画「大酋長」の2本だった。 |
影 大酋長 やくざ特急 大運河 タラワ肉弾特攻隊 決戦珊瑚海 気分を出してもう一度 |
1960年 (昭和35年) |
46 | ヘラルド映画株式会社は、大洋映画株式会社と北欧映画株式会社を合併。 大蔵省による映画輸入本数割り当て9本に増える。 毎週水曜日の朝、一番の列車で名古屋を発つ。まだ新幹線のない時代のことだ。名古屋に戻るのは金曜日の夜遅く。東京は3日の滞在になる。 金曜に戻らなければならないのは、土曜日は興行(映画館)の面倒を見なければいけないためだ。土曜日に初日を迎える映画館はとりわけ忙しい。 名古屋駅前に70㎜映写機を持つ毎日ホール大劇場開場。毎日地下劇場開場。 |
海賊黒鷹 征服されざる西部 逆転電撃作戦 皆殺し砦 撃墜王アフリカの星 大宇宙基地 戦う若者たち |
1961年 (昭和36年) |
47 | 株式会社ニッポンシネマコーポレーション(NCC)を合併、『日本ヘラルド映画株式会社』を設立。 ヘラルド側の社員は28人、対するNCCは80数人の大所帯。イワシがクジラを呑み込んだような話だった。 |
原子潜水艦 恋はすばやく 恋人たちの森 骨までしゃぶれ 忘れな草 不沈母艦 熱風 快傑キャピタン スパルタの若獅子 陰母神カーリ アメリカの裏窓 狂った年輪 夜と霧 絞首台の決斗 猛獣境ゴロンゴロ |
1962年 (昭和37年) |
48 | 「アメリカの裏窓」文部省芸術祭奨励賞 とても勝ち目はない強力な相手でも、ぶつかっていったね。負けるから何もしないでは話にならん。あえて競い合うことで自社作品が好成績に結び付けばいいんだ。そんな例はいっぱいあるわね。 ソ連の70㎜映画『戦場』が、まずひとつ。そのころ映画界はとっくに大型スクリーンになっていたんだが、アメリカ製はうちでは手に入らない。それでソ連に目を向けてみたんです。 セルゲイ・ボンダルチェクの企画中70㎜超大作「戦争と平和」ほしさに、「戦場」を結局、テスト的に入れてみたんですよ。わずか1時間10分ぐらいの短いものでした。 ところでこの映画の公開のとき、ちょうど一緒に出てきたのがアメリカ・UAの70㎜「ウェストサイド物語」。ご存知、ミュージカル映画の大傑作の登場でね。 ごく普通のやり方で、まともに勝負を挑んでは、勝ち負けは目に見えています。簡単につぶされてしまうでしょう。 そこで宣伝でかき回してみたんだね。「戦場」の大きな新聞広告をじゃんじゃん打って、いかにも超大作といった感じでやってみたのね。これで、幸いなことに世間が、いかにも二作の対決みたいに騒いでくれたわけだ。 なにしろ1時間ちょっとの短いものでしょ。1日に何度も上映できて、なにが幸いするか分からないもんだな。 初めに思ってたよりずっと当たったんですよ。"米ソ70㎜決戦"なんていい方で週刊誌が火をつけてくれてね。そのお陰でしょう。 社内には古川社長の「やりゃあせ」という名古屋弁のハッパが鳴り響いていた。 【宣伝とは・・・】に続く |
戦場 素晴らしき恋人たち 激しい夜 オセロ 望郷 ボクは二枚目 ローマの恋 硫黄島の砂 白昼の決闘 豊かなる成熟 壮絶!敵中突破 リオ・グランデの砦 コンクリート・ジャングル レッツゴー物語 終着駅 決闘コマンチ砦 チャンピオン 第8ジェット戦闘機隊 グラマー大行進 太陽はひとりぼっち 草の上の昼食 |
1963年 (昭和38年) |
49 | イタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの『昨日・今日・明日』ですがね。 ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニが出演した艶笑コメディで、三つの話からなるオムニバス形式の映画でした。 これをニューヨークで見て、すぐ買いたくなってね。話はおもしろいし、題名もいい。ところが、ちょっとやそっとでは手が出ない。えらい高かったんだ。 その頃ヘラルドはヒットが少なくてね。実は、海外へ買い付けに出かける前に「あまり高いのはやめてくださいよ」と周りからクギをさされていたんだがね。 いやあ、どうしてもほしい。カネもうけは二の次で、心底、映画にほれ込んでまったんだ。 「ええい、決めてまった」とその場で契約したんだよ。 宣伝広告は大胆で、ユーモアたっぷり。お腹がせり出たソフィア・ローレンの立ち姿を横向きに、新聞広告面のど真ん中に据えて、新聞読者をあっといわせた。 映画ファンならずとも、たしかに興味をそそられるにちがいない。それが映画へ足を運ぶきっかけになるわけで、コマーシャルの基本を確実に実践している例といえる。 新聞に現在、これだけのセンスの良さが目立つ映画広告が出ているだろうか?他の産業に完全に先を越されているという答えが当たっているのでは-。(↓) |
大盗賊 トンネル28 戦略突撃命令 遠い太鼓 太陽のはらわた ノートルダムのせむし男 わんぱく戦争 明日になれば他人 世界かく戦えり ガラパゴス エヴァの匂い 黒い牡牛 妖姫クレオパトラ 零下の敵 地上最笑の作戦 禁じられた恋の島 チコと鮫 濡れた砂丘 怒れ!バイキング ぼくの叔父さんの休暇 地下室のメロディー 肉弾海兵隊 ソドムとゴモラ 女と男のいる舗道 ヨーロッパの裏窓 |
1964年 (昭和39年) |
50 | さらに、『昨日・今日・明日』では宣伝にひねりを加え、テレビ・コマーシャルに製薬会社と結んだんです。映画の中でね、夫が精力あふれるやつなんで、「精力剤・リキホルモをどうぞ!」とやったわけです。 新人歌手の奥村チヨにコマーシャル・ソングを歌わせて、まったく、ニュータイプのCMだった。 優秀外国映画輸入配給賞(通商産業大臣賞) 名古屋栄に『中日シネラマ会館』を建てる。若宮神社(名古屋市・中区)の隣、戦災で焼けた名門・松竹座の跡地に、「名古屋に、ヘラルド映画を統合する大きな城がほしい」というのが、勝巳たちの発想だった。 単にビルディングを建てるだけではおもしろくない。そこで、総合娯楽センターをねらってみたんだよ。ボウリング場がある。食べもの屋、パチンコ屋がある、そういう娯楽の殿堂ですね。 しかし、このとき勝巳には資金がなかった。資金集めのため、銀行へ日参をはじめた。「血のおしっこ出るというのはほんとだよ。銀行でのひざ詰め談判、シネラマ会館というビルが名古屋にどんなに必要なものかをしゃべりまくる。いらいらしながら一日を過ごす。眠れない。こんなとき、血の色をしたおしっこが出るんだ」と、のちに勝巳は語るが、とうとう、資金のめどがついて建ち上がることになる。 東京に帝劇、大阪にOS劇場が120度のスクリーンを持つシネラマ劇場があったが、後からつくるんだから名古屋のものこそ本物と言われるように180度のスクリーンをもつ中日シネラマ劇場をメーンとしてつくった。360度のシネタリウムもつくったが、これは失敗だったよ。画面が鮮明でなくてね。構想自体が早過ぎたんだ。 ただね、「日本で初めて」というのが私には価値あることと思っとるんです。 |
夜のけもの 逆襲!大平原 突然炎のごとく めんどりの肉 わんぱく旋風 チャング 黒いチューリップ 家族日誌 豪快!マルコポーロ ゼロの世代 昨日・今日・明日 禁じられた抱擁 黒い情事 接吻・接吻・接吻 太陽の国のカンツォーネ アイドルを探せ 廃墟の欲望 X27号絶対絶命 軽蔑 怒りと響きの戦場 旋風平原児 鎖の大陸 大城砦 暴力の門 輪舞 |
1965年 (昭和40年) |
51 | 「突然炎のごとく」に対してNHK最優秀映画賞 日本ヘラルド映画は、副社長に外国人をよく登用した。(サム・)難波敏さん(元メトロ映画日本代表・当時アメリカ国籍)もその一人だが、ソ連の人でベルゲル氏という方を登用し、ソ連、ロシア、東欧の映画を多く扱うようになった。 この時の実績とコネクションが黒澤明監督の「デルスウザーラ」につながっていく。 |
ダンケルク タブウ 気まゝな情事 決斗カリブ街道 魔境ベンガル 柔らかい肌 あゝ結婚 大諜報作戦 可愛い悪女 太陽がいっぱい 濡れた夜 珊瑚礁の彼方に 星空 ゴールデン・ハンター ベイルート作戦・危機突破 夜霧のしのび逢い セクシー・ダイナマイト ヘラクレスの怒り フィフィ大空をゆく |
1966年 (昭和41年) |
52 | 第3回洋菓子コンクールにて内閣総理大臣賞受賞。 | 貴方にひざまづいて 青いけものたち 戦火を越えて 甘い大陸 国境は燃えている 世界のはらわた 潜航決戦隊 スタンダールの恋愛論 幸福[しあわせ] 戦争と平和[第1部] 獅子王の逆襲 野獣ども地獄へ行け 河の女 殺しはドルで払え 悲しみは星影と共に 恋するガリア 続タブウ・快楽と神秘 ミネソタ無頼 |
1967年 (昭和42年) |
53 | 優秀外国映画輸入配給賞(通商産業大臣賞) 資生堂パーラー、栄地下街南店・メトロ店開店。 |
ジャガーの眼 地球は燃える 歓びのテクニック ガンマン無頼 ギャング 天と地の間に 脱走部隊0013匹 気狂いピエロ ジェーン・エアー 狂った大陸・ レモンの涙 欲望の沼 ロミオとジュリエット ナポリと女と泥棒たち 皆殺し無頼 戦争と平和=完結編 天使の詩 |
1968年 (昭和43年) |
54 | 優秀外国映画輸入配給賞(通商産業大臣賞) フランス映画の看板みたいなアラン・ドロンですけどね。彼は母国フランスでの人気より日本でのほうが上なんだ。これはヘラルドの力が大きいと自負してるんですけどね。『地下室のメロディー』とか『太陽はひとりぼっち』『さらば友よ』とか。ヘラルドが配給して、フランス国内以上にヒットさせたからね。 ドロンは目に色気がある。日本人受けするんです。長谷川一夫の流し目によく似ているな。それで私もひいきにし、彼を売り出すことに力を入れてきたんだ。作品でいえば「地下室のメロディー」が絶頂だったでしょう。 ところが配給は東和、松竹映配、ヘラルドの三社共同という変則的な形で、単独配給できなかったのは残念だったけどね。 |
歓喜のたわむれ 怒りのキューバ 湖のもだえ ダーリング サムライ 老人と子供 砂塵に血を吐け バルカン要塞の黒鮫 美しき虹のかけら 続・鎖の大陸[苦いパン] 黄金の三悪人 花嫁の父 LSD/5ドルで天国 アルプスの少女ハイジ 花弁が濡れるとき 風もひとりぼっち アフリカ最後の残酷 草むらの快楽 さらば友よ 未青年 殺して祈れ 夜空に星のあるように 血まみれの欲情 勝利と敗北 天国か地獄か 雨の朝巴里に死す |
1969年 (昭和44年) |
55 | 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「アポロンの地獄」輸入配給に対して) 春休みにはチビッコ向けのアニメ映画がどっと出てきますね。 どこもかもあんまりアニメ映画が多いんで、つい、うっかり「東宝までアニメばっかりだね」といってしまったんだ。ところが松岡(松岡功東宝社長)さんから逆襲食ってしまってね。「何いってるんだ古川さん。あんたのとこだって昔はずいぶん作ったじゃないか」。いや、どうも、その通りなんだな。 うちが劇場用に作ったアニメのはしりではないかな。テレビに"アニメ"と呼ばれるのが出始めた頃で、映画館では東映とかディズニーとか、そう"まんが"の時代でしたよ。外国映画の配給会社であるのに映画を作るわけだから、それはもう一大決心だわな。 ヘラルドが作った映画第一号、それが『千夜一夜物語』です。手塚治虫さんの虫プロと組んでやろうということになったんでね。着想の妙というんかな。普通の35mmではつまらん。世間はびっくりせんぞよというんで70mmもどきでいきゃあ、それならおもしろかろうということになったんだよ。 "アニメラマ"と名付けてね。しかもエロチックな場面の多い大人向けのでなくちゃいかんと。当たりましたねえ。(↓) |
華麗なる殺人 アポロンの地獄 先生 豊かなるいとなみ 黄金無頼 太陽が知っている ふたりだけの夜明け 世にも怪奇な物語 オー! エスカレーション 千夜一夜物語 銀嶺に賭ける サルタン王物語 アラジンと魔法のランプ 戦場のガンマン 電撃特攻作戦 ハムレット マルキ・ド・サドの 枯葉の街 世界浴場物語 ラムール ジプシーの唄をきいた ネレトバの戦い 夜霧のモントリオール |
1970年 (昭和45年) |
56 | 映画製作二作目も同じ手塚さんと組んで『クレオパトラ』を作ったんです。これも色っぽくいって、続けてヒットしました。 化粧品メーカーとタイアップしたのもあったよ。映画がヒットしてタイアップ商品が売れるのが理想なのはいうまでもない。 『狼の挽歌』のチャールズ・ブロンソンが「うーん、マンダム」と言う、あれ。初めは商品名だったんだが、このCMの力が大きかったんだろうな。とうとう社名まで丹頂からマンダムに変わっちゃった。それほど人気になったんだね。 |
続・快楽と神秘 美しき人生 天使のコイン 雨の訪問者 太陽の暗殺者 夜の刑事 抵抗の詩 ガラスの部屋 ファラオ 花弁のうずき 雪わり草 濡れた恍惚 すばらしい蒸気機関車 豚小屋 チャイコフスキー 荒野の大活劇 赤いテント 最後の鉄橋 クレオパトラ 牝の肌 狼の挽歌 陰獣の森 |
1971年 (昭和46年) |
57 | 優秀外国映画輸入配給賞(通商産業大臣賞) 映画製作三作目、四作目がいけません。谷岡ヤスジ原作『やっちまえ!!ヤスジのポルノラマ』、虫プロ『哀しみのベラドンナ』がこけてしまったんですよ。 エロチック路線もここまで来るとぼやけてしまってね。同じように当たると思ったら大間違い。調子にのって作るだけではダメですよ。観客は必ずあきがくる。 路線に沿ったものは、あとほどなおさら製作から公開まで、気を引き締めとかんとね。 |
哀しみのトリスターナ みどりの壁 驚異の大自然・ 薔薇色のロレーヌ 熱砂の戦車軍団 ジェーン・エア わが青春のフロレンス ガラスの墓標 豊かなるめざめ 小さな恋のメロディ 色情日記 雨のエトランゼ 旅情 シシリアの恋人 やっちまえ!! 荒野の無頼漢 リリカ ジョー・ヒル コニャックの男 デッドヒート・ 陰獣の館・性狂い 愛すべき女・ 世界残酷2000年 初恋 |
1972年 (昭和47年) |
58 | 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「小さな恋のメロディ」輸入配給に対して 「ジョーヒル」に対して文部省芸術祭優秀賞 アイスクリーム工場を天白に設立。 |
クリシーの静かな日々 雨のパスポート 小さな悪の華 妖精の詩 セックス訓練 好奇心 夜と霧 愛のふれあい 汚れた刑事 バラキ 象牙色のアイドル ひきしお ハメルンの笛吹き ひとりぼっちの天使 フランツ・リスト 情熱の生涯ゴヤ 透き通った夕暮れ 花弁地帯をむしる バングラデシュ・ 死刑台のメロディ 狼の賭け ラムの大通り 帰郷 |
1973年 (昭和48年) |
59 | 「ジョニーは戦場へ行った」文部省芸術祭大賞 『アマゾネス』はうまくはまったタイトルでしょ。 カンヌに行ったときニースの郊外にあるテレンス・ヤングの別荘に招かれて、そこで彼から押しつけられた映画でね。製作と監督を兼ねているんだね、彼が。 買うには買ったが原題の"アマゾンズ"がねえ。アマゾンというのはギリシャ神話に出てくる女族のことで、えらく強いんだ。体の大きな女優を世界中からいっぱい集めて作ったんです。 ふっと頭に浮かんだのが"アマゾネス"。結構いい加減に付けた題名なんだが、流行語にまでなってまった。そんな言葉、いくら辞書を引いても見つからんぞよ。 それでもね、強い女のこと"アマゾネス"なんていい方、今でもちゃんと通用するでしょ。 私は、安ものの映画でもね、タイトルでなんとかなることもたしかにあると思うんだがね。 【映画の題名】に続く バロック風レストラン"資生堂サロン"開店、八事ジャスコ店開店。 |
幸福 赤ちゃんよ永遠に シシリアン・マフィア ダニエルとマリア ジョニーは戦場へ行った 駅馬車 悶絶色情狂 花のようなエレ 淫情妻 シャーロットのおくりもの 痴態相愛図 処女たち 哀しみのベラドンナ 快楽地獄・エロチコン ガラスの旅 上級生 アマゾネス 別れのクリスマス 誓いの牧場 赤い仔馬 風雪の太陽 国際殺人局K・ 宝島 白樺の林 緑の森の恋人 黒い砂漠 エスピオナージ |
1974年 (昭和49年) |
60 | 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「ジョニーは戦場へ行った」輸入配給に対して 「黒い砂漠」に対して文部省芸術祭優秀賞 「別れのクリスマス」に対して厚生大臣より 児童福祉文化奨励賞 『エマニエル夫人』の公開は昭和49年の暮れです。忘れられない作品のひとつだね。 ちょうど石油ショックの時期になるんです。トイレットペーパーやせっけんの買い占め騒ぎが起きたり、灯油が猛烈な勢いで値上がりしたり。台所を預かる主婦たちを大いに嘆かせたそのころ、この「エマニエル夫人」が出たんだね。 ポルノ映画といってもいいんだけど、主婦を含めて女性中心にウケてヒットしたんだ。話がきたときには、主役がたいへん美しいファッションモデルだというんで、これはいいなと思った。ちょっとポルノだというくらいが心配だったけどね。 でも、ファッショナブルなムードがよかったんだね。それで女の人でも映画館に足を運びやすかったんでしょう。 エマニエル・ボーナス?そう、あのときボーナスの額のことで週刊誌にまで騒がれてまったんだな。「ボーナス袋が立つほど厚みがあった」とか。たしか10ヶ月以上出しましたよ。金額はともかく、重役クラスなら東京近郊の土地を買えたと言っておきましょうか。 |
マッド・ボンバー ダラスの熱い日 ウィークエンド・ラブ 夜をみつめて 暗黒街のふたり さらばバルデス イルカの日 ペイネ・愛の世界旅行 やさしいライオン ジャックと豆の木 悪魔のはらわた ひまわり 私のように美しい娘 イタリアン・コネクション かもめ ゴルデン・ エマニエル夫人 シネ・ブラボー! |
1975年 (昭和50年) |
61 | 『イタリア共和国有功章・カバリエーレ章』受章 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「エマニエル夫人」輸入配給に対して 「乱」はフランスとの合作映画ですが、これよりずっと前に黒澤監督がソ連へ出かけて行って撮ったのが『デルスウザーラ』です。 ヘラルドの根回しで製作にこぎつけた作品なんです。当時、黒澤さんは「どですかでん」以来、長らく映画の現場から離れていて一種の浪人状態でしたね。宝のもちぐされですよ。 なんとかもう一度、世に出てもらわねばならん。日本ではとても作れない。じゃあ共産圏に絞って話してみようということになったんです。 まずユーゴスラビアに行った折に、向こうの映画公団総裁と会う機会があったから「クロサワのシャシンはどうだ。作る気はないか」と言ったら、すぐ「やりましょう」という返事をもらった。 その足で、今度はモスクワに入って、映画合作公団のテレシビリ総裁に同じ話をしたら、こちらも賛成だという。 こうやって受け入れ作っておいて、黒澤さんの「ソ連のほうがよろしい」ということで決まったんだ。 映画はモスフィルム撮影所で製作する。つまりソビエト映画です。 ヘラルドの製作費?それはね、日本での上映権をもらうことにして日本円で使える部分(監督の給料とか、スタッフの生活費とか、飛行機の運賃とか)を払うというやり方。 黒澤さんはこの映画で米・アカデミー賞をもらうのですね。見事なカムバックですよ。うん、名誉回復。 |
ボルサリーノ2 アマゾネス対ドラゴン・ 悪魔のいけにえ 赤いブーツの女 別離 薔薇のスタビスキー 悪魔の墓場 奇跡の詩 吸血の群れ デルス・ウザーラ インモラル物語 謎の完全殺人 暗闇にベルが鳴る 続・エマニエル夫人 砂のミラージュ 愛の嵐 ああ情熱 別れの街角 |
1976年 (昭和51年) |
62 | 優秀外国映画輸入配給賞(通商産業大臣賞) 三島由紀夫原作の『午後の曳航』をヘラルドも参加して日英合作で作ったのは昭和51年のことです。外国側のプロデューサーは、当時ロスアンゼルス住まいのマーチン・ポールといって、ヨーロッパでもいろんな作品を手がけている腕ききでしたね。日本の作家の小説を、海外に舞台を移して撮ったんだが、けっこう評価の高い、いいシャシンになった。それにきれいな英語の映画でね。英会話の勉強になるほど評判になったんだよ。 三島原作の映画化権をよくぞ取れたと思うでしょう。 なかなか取れないというからね。ヘラルドの大阪の社員の奥さんが三島由紀夫のいとこの間柄で、それでうまくいったんだ。 完成披露パーティーを東京で開いたとき、いろんな人が集まったんです。 角川春樹さんもそのときですよ。「ボクも映画を作りたい。古川さん、お願いします」と言いだしましてね。世話焼いたんですよ。私が。 角川さんは旗揚げ映画「犬神家の一族」(池の中から足が二本にゅっと飛び出ている広告ポスターはヘラルド宣伝部が制作)で大ヒットを飛ばし、そのあともどんどんヒット作をくりだしていくわけで、たいしたもんだよ。三作目にしてようやくヘラルドと「野性の証明」を作り、まあ、映画界への橋渡しをした恩を返してもらったというところかな。 『グレート・ハンティング』も社会的な話題になったな。イタリアのドキュメンタリーでね。 これが、まるでポイントがないんだな。これはいかんと思ったね。50万ドルと安いことは安かった。弱ってまって、強烈なシーンが欲しいわけだ。国際部に「なにか探せ」とはっぱをかけていたところ、イタリアの別会社のフィルムの中に「ライオンが人間を食う場面がある」と言ってきました。 「よし、それで行こう」とこのフィルム買って、その一シーンを元の映画にはめ込んだわけだ。わずか1、2分の短いシーンだったんだが、火が付きましたね。新聞に大きく紹介されたし、本当にそんなことがあるのかと週刊誌が騒いだし、ヘラルドでは5番目の成績になりました。(↓) |
金瓶梅 虹をわたる風船 バギーチェイス 影なき淫獣 グレートハンティング ロリーポップ 楡の木陰の愛 続・おもいでの夏 星にのばされたザイル ベンジー パンダのふるさと 午後の曳航 棟方志功の世界-彫る 雨のロスアンゼルス アンデスの聖餐 大滑走!!死のゲーム 静かなるドン・総集編 候補者ビル・マッケイ 明日に処刑を・・・ カサンドラ・クロス ラストコンサート 悪魔の沼 UFO・襲来! |
1977年 (昭和52年) |
63 | これもすぐ2番目を買った。『グレートハンティング2』でね。第一作の倍以上もしたね。百二十万ドル。値段はともかく、これも困ったことにヤマ場がない。 もういっぺん「探せ、探せ」をやってみたけど、結局そのまま公開したんです。 前より美しいシーンが多かったし、フィルムの出来はいいんだ。でもね、もうひとつ入らなかったな。そりゃあ、そうだよ、すべてがそんなにうまくいくわけがないわね。 『藍綬褒章』受章 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「午後の曳航」輸入配給に対して) いくつか製作を手がけた中に「歌麿・夢と知りせば」があった。失敗だった。 テレビ出身で。ATGで活躍していた若手の実相寺昭雄監督の野心作だったんだけどね。浮世絵的な濡れ場などエロスの表現に当時はまだ限界があったんだな。 でもね、実相寺監督の美意識はCM界で成功してますよ。 それに「赤い帽子の女」もうまくいかなかったな。芥川龍之介原作といわれているポルノ小説を神代辰巳監督で映画化したんだがね。 初め出演してもらうはずだった女優さんの交代劇があってね。ところが、新しく出てもらった人が日本人好みでなくて-。うまくいかないもんだよ。 |
クラッシュ! ザ・メッセージ アンナ・カレーニナ ハンプス アンディ・ウォーホルのBAD グレートハンティング2 熱愛 合衆国最後の日 テンタクルズ スキャンダル ベンジーの愛 珊瑚礁よ永遠に さすらいの航海 シビルの部屋 歌麿/夢と知りせば ヤングチャタレイ 成人版・エマニエル夫人 ジョーイ 放浪紳士・チャーリー |
1978年 (昭和53年) |
64 | 肺ガンのため片肺切除の大手術をうける。三年後に完治。若いころはチェーン・スモーカーと呼ばれるくらいのヘビー・スモーカーだったようで、左手にタバコを持っている姿が何枚もの写真にうつっている。 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「ジョーイ」輸入配給に対して サム・ペキンパー監督の『コンボイ』のときは、アメリカから十八輪のトレーラーを持ち込んだんです。 大トラック軍団がパトカーと追いつ追われつハイウェーを突っ走るスケールの大きな映画だからというんで、それなら本ものを宣伝に使おうや、ということになった。単純な話でね。まったく。 ところが、その図体のでかいやつを船で運んで上陸させたまではいいが、これが日本では走れなくてね。走行許可が下りないのですよ。しかたがないから、日通のトレーラーを頼んで、その上に乗っけて、あっちこっちの会場を回りまして。そう、展示するだけ。 わざわざ運転手のアメリカ人まで雇ってきたのに。 だけどね、いつでもみんなにいっていることなんだが、フィルム買った以上は、とことんアイディアを出し合って宣伝しなければウソですよ。 |
雪物語 黄金のランデブー ミスター・ダイヤモンド ドミノ・ターゲット 親子ねずみの不思議な旅 マニトウ クワイヤ・ボーイズ 野性号の航海 コンボイ フィーリング・ラブ ザ・ドライバー タイガー・シャーク 野性の証明 ケンタッキー テイク・オフ チェイサー シャレード79 |
1979年 (昭和54年) |
65 | 『フランス共和国芸術文化勲章・シュバリエ章』受章 昭和55年に公開した『地獄の黙示録』にかかわったときは、映画の仕事をしていて、大袈裟に言えば波瀾万丈なんてことはいくらでもあるんだが、こんときは特別、たいへんだったな。 コッポラ側から「制作費は全部で3400万ドル。日本とアジアの配給権を渡すからどうだ、そのぶん制作費を出さないか」と言うんですね。 この頃、1ドル300円の時代だから9億円にもなるんだよ。 話の大筋を聞いてみるとまずスチーブ・マックィーン主演で映画化を進める。それにマーロン・ブランド交渉中とかで、こっちとしてはマックィーンに大いに魅力を感じたわけなんだ。 「よし、わかった。乗りましょう」とヘラルドとしては大勝負に出たんだが、いざ勝負という矢先になって事件が起きたんです。 アメリカの製作サイドから「マックィーンの出演がダメになった。どうするか意見を聞かせてほしい」と言ってきた。代役として新人のマーチン・シーンということなんだ。落ち過ぎますよ。 役者をつくり上げるウデが確かなコッポラ監督ということは分かっていたので、結局コッポラ監督の力量にまかせることにしました。主役のギャラが違うから、こちらのぶんは270万ドルということでオーケーを出しました。(↓) |
グローイング・アップ 仮面・死の処方箋 ブリンクス ゾンビ イノセント ハリケーン 料理長殿、ご用心 さらば映画の友 アバランチアクスプレス 北壁に舞う レベルポイント ザ・ショック メテオ さよならミス・ワイコフ マイベビー サイレントフルート ドラキュラ都へ行く |
1980年 (昭和55年) |
66 | この映画はフィリピンでロケして撮ったんです。コッポラ監督は日本にも事務所を置いて、アメリカへと往復して行く。そのうち、「クロサワ(黒澤明監督)に会わせろ」とか「女房がアメリカから来たからちょっと千ドルばかり貸してもらいたい」だとか、「"炎上"(市川崑監督)のシーンを参考にしたいから、そのビデオをマニラに送ってほしい」とかいろいろな注文をしてくるんだ。 ああ、全部かなえてやりましたよ。 サンフランシスコへ出かけて行って、ラッシュ・プリントを見せてもらったんだが、驚きましたねえ。前半と後半でがらり調子が違うんだ。 「う-ん」。思わず、うなってしまった。十億円近い金を使っている。困ったぞよ。 もちろん監督に言いましたよ。前半の、あの「タンタカ、ターン」のペースで後半も快調にやってもらわにゃあ困るとね。ところが監督のほうは「これでいいんだ。これが新しいんだ」の一点張り。力んでいるんだよ。何を言ってもダメ。直しませんよ。 結局、そのまま世の中に出た。こっちだって長年、映画を扱っているからカンは鋭いよ。興行成績は三割ほど割り引いた数字になってしまったね。 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「地獄の黙示録」輸入配給に対して 「奇跡の人」厚生大臣より児童福祉文化賞 |
ゴーイング・ステディ 地獄の黙示録 あしたのジョー 悪魔の棲む家 わが心のジェニファー 戦争と友情 ランニング ザ・フォッグ ビタースイート・ラブ 奇跡の人 ウォーターシップダウンの ライジング・サン 大理石の男 カリギュラ ポピーダンス テス 恐怖のいけにえ デビット・ 天才悪魔フー・マンチュー エデンの園 |
1981年 (昭和56年) |
67 | 「大理石の男」に対して文部省芸術祭大賞 「テス」に対して文部省芸術祭優秀賞 「地獄の黙示録」に対して読売映画広告賞 |
地獄の謝肉祭 最前線物語 マッド・ストーン 月光仮面 おじゃまんが山田くん 殺しのドレス ジャズ・シンガー ニューヨーク1997 ハウリング 恐るべき訪問者 郵便配達は ジェラシー ホテル LOVEシーズン ゾンゲリア ラスト・カーチェイス あしたのジョー2 キャプテン シリウスの伝説 ベリッシマ 約束の土地 嵐が丘 サンフランシスコ物語 の、ようなもの 陽炎座 愛と哀しみのボレロ 燃えよデブゴン リリー・マルレーン |
1982年 (昭和57年) |
68 | 社団法人外国映画輸入配給協会特別賞 (「Uボート」輸入配給に対して 「約束の土地」に対して文部省芸術祭優秀賞 「愛と哀しみのボレロ」に対して 日本アカデミー賞協会より優秀外国映画賞 「ロアーズ」に(財)動物愛護協会より優秀賞 『乱』は東宝の『影武者』が成功した後、フランスから話があってフランス側が製作費20億円の半分を出資する形で製作発表があったのは昭和57年秋です。 このときはまだヘラルドは製作に参加していません。クランクイン間近になってフランス政府の通貨規制により製作そのものがつまずいてまった。フランスがミッテラン政権に変わって「国外への送金はダメ」というんでね。 ところが、ヨロイやら衣装はもうできてたんだよ。役者ももう拘束しているわ、でね。馬までアメリカに七十頭も特別注文してしまっている。それに製作拠点になる新スタジオが横浜に完成といったありさまでね。 |
Uボート 死霊伝説 さよならジョージア ミッドナイトクロス 狼男アメリカン クリスチーネ・F グローイング・アップ マニアック SEX発電 ニッケルオデオン ロアーズ クレイジーポリス・大追跡 ジャンクマン 夏の嵐 ザ・ソルジャー 赤い帽子の女 病院狂時代 ピックポケット! |
1983年 (昭和58年) |
69 | 「Uボート」に対して 日本アカデミー賞協会より優秀外国映画賞 『南極物語』は、蔵原惟繕監督がフジテレビと一緒にヘラルドへ持ち込んできた話なんだよ。「こんな企画があるんだが、作らないか」と言ってきてね。 くわしく聞いてみると撮影のために南極へ出かけるとか、出演陣が高倉健になるとか渡瀬恒彦とか、それを長期間にわたって拘束するんだな。これは相当カネがかかる企画になりそうだなと思った。 撮影の時、いろんな苦心談があってね。オーロラを撮るのにフィルムの感度ではダメだからビデオを使って、それをフィルムに移す新機軸を打ち出したりね。 出演者やスタッフの乗った船が南極の氷に閉じ込められたり、蔵原監督が撮影中に肋骨を折ったり、いろんなトラブルがつきまとったんだ。大きな映画にはどうしても困難がつきまとうんだな。 興行の成功は結局、五社共同(制作はフジテレビ、学研、蔵原プロダクションの三社。ヘラルド、東宝の共同配給)の立体作戦が功を奏したといえるでしょうね。 それに映画館のない地域まで上映できたのは大きい。各市町村のホールを使って、PTAや教育委員会が上映に力を注いでくれるんだから。こんな映画はちょっとないでしょう。それであれだけの数字になったんだね。(当時、これまでの日本映画の中で映画興行成績ナンバーワン) |
処刑教室 少林寺への道 隣のお姉さん 聖女アフロディーテ 遠野物語 民衆の敵 5人のテーブル 初恋物語 アギーレ・神の怒り 青い恋人たち 赤い影 ウイニングラン ミラクルマスター・ 南極物語 シャドー ヘカテ チェーンヒート アイコ十六歳 ネバーセイ・ネバーアゲイン グレート・ハンティング84 |
1984年 (昭和59年) |
70 | 『乱』は延期とか中止とか、すったもんだの挙げ句、そんな段階になってヘラルドへ出資の話が回ってきたんです。 メジャーの東宝でさえ二の足を踏んだんだから。「黒澤さんのはいつも予算超過する」って嘆いていたこともあったわな。 2週間返事を待ってもらって、フランス側の状況を調べたりして、GOサインを出したんですよ。 フランス側プロデューサーはスタート時点からセルジュ・シルベルマンという人物です。この人とは旧知の仲で、うちの配給作品では『雨の訪問者』や『さらば友よ』があり、その製作者です。 1984年6月2日クランクイン。姫路城、熊本城の撮影のあと、阿蘇山ろくを中心にロケが行われた。 「乱」のハイライトシーンのひとつ、騎馬軍団が激突する合戦シーンは昭和59年8月、大分県飯田高原で行われ、外国人記者を含めた記者団にも公開された。 騎馬隊、鉄砲隊、ヤリ隊のエキストラは両軍合わせて千人。馬二百三十頭はアメリカから輸入したクォーターホース七十頭に、九州周辺から集めた優駿ぞろい。 黒澤監督は九メートルの高さに組まれたヤグラの最上部に陣取って指揮する。スタッフ、キャストにすごいカミナリを落としながら。このヤグラの上で一度も休まず6時間半。この間、握り飯ひとつでがんばったというからすごい。七十四才(当時)とは思えぬタフさを取材陣に見せつけた。 この合戦シーンだけで2億円の費用だった。さらに富士山の中腹に実物大の城を4億円かけて建築、その落城、炎上シーンを撮り終えた。 黒澤明監督の完全主義を支えたのがヘラルドだったといえる。まさに古川社長のいう「映画好きが映画を作り出した」のである。(↓) |
水滸伝 綿の国星 ダントン マッドライダー サン・スーシの女 プレイボーイ・コレクション さよなら夏のリセ ビッグウェイブ 海辺のホテルにて パッション・ダモーレ コヤニスカッティ ブレイクダンス 瀬戸内少年野球団 ザ・ライダー 特別な一日 アンナ・パプロワ テリー・フォックス物語 しのぶの明日 3人でスプリッツア ゴールド・パピヨン ブレイクダンス2 スワンの恋 ドーバー海峡殺人事件 生徒諸君! |
1985年 (昭和60年) |
71 | スケールの大きさ、合戦場面の華麗さは、まさしく古川社長のいう「もうどこの国の、どんな人も作り出せないみごとさ」であるのはまちがいない。 資金づくりは苦労しましたよ。結局、4億5千万円の超過になってしまった。 周囲では泣きごとを言う者もあったが、「ここまできたんだ。ガタガタするな」って、しかりつけながら完成にこぎつけたんですよ。 遂に、6月1日ロードショー公開 ごく最近になって『銀河鉄道の夜』(アニメ/朝日新聞社・テレビ朝日と組んで)を作ったんだけど、宮沢賢治原作というんで、けっこう親子連れで見てもらえたんです。でも、映画館で大人たちは難しい顔しているんですよ。その横の子供たちはよくわかるんだ。こちらがちょっと難解かなと思ってもね。素直に見るからなんだろうね。大人たちは逆にそれができないんだ。宮沢賢治の作品というふう頭で考えてしまう。それがいけないのかな。 『勲三等旭日中綬章』受章 【叙勲のことへ】 第一回東京国際映画祭開催(この項目へ) 「瀬戸内少年野球団」に対して、 ブルーリボン賞最優秀作品賞 毎日映画コンクール日本映画優秀賞 毎日映画コンクール日本映画ファン賞 |
私生活のない女 死霊のはらわた 皇帝密使 緑のアリが夢みるところ ごんぎつね 乱 レイザーバック 殺意の夏 地獄のヒーロー 狼の血族 銀河鉄道の夜 シルクウッド アナザー・カントリー グローイング・アップ6 スペース・バンパイア スキャンダル・愛の罠 女と男の名誉 マルチニックの少年 サンタクロース ダンス・ウィズ・ア・ |
1986年 (昭和61年) |
72 | 「乱」が米・アカデミー賞の監督賞、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞の四部門にわたってノミネートされ、古川勝巳社長の喜びは大きかった。 当然外国語映画賞の部門にはいっていいのだが、フランス側から"日仏合作"として立候補しようとしたところアカデミー賞にそんなワクはなく、あとの祭り。手違いにより涙をのんだ。 アカデミー賞の前哨戦であるロサンゼルス批評家協会賞やニューヨーク批評家協会賞の最優秀外国映画賞、全米批評家協会賞の最優秀作品賞など次々に獲っているため、この部門にノミネートされていれば、ほぼ受賞は確実だったはず。 衣装デザイン賞部門でワダエミさんがオスカー賞を獲得して、会場での黒澤監督も「これで十分」と余裕たっぷり、満足の表情だったという。 授賞式の最後を飾る作品賞のプレゼンターは、黒澤監督、ビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンの世界の映画界を代表する顔ぶれだった。 「デルス・ウザーラ」「乱」を通して黒澤監督作品を二度、世界のヒノキ舞台に送り出した古川勝巳社長の業績は大きい。 7月12日永眠。享年72歳。 7月29日、古川勝巳社長のヘラルドグループ合同社葬は、葬儀委員長徳川義知(尾張徳川家第二十代当主)、葬儀副委員長金子操(東宝副社長)両氏のもと、名古屋市千種区、覚王山日泰寺で執り行われた。 黒澤明監督は式に参列し、個人のめい福を祈るとともに、死去に際しても「古川さんは、ともかく純真で商売にこだわらない人だった。現場に協力的で、仕事には口出ししなかったから現場の者としてはやりやすかった。今の映画界では珍しい人で、もっと長生きし、活躍してほしかった」の言葉を新聞(中日新聞朝刊・7月12日付け)に寄せている。 黒澤監督のこうした行動や言葉は古川社長の人柄ともいえるし、黒澤監督の社長に対する感謝のしるしともいえるだろう。 「乱」に対して、 全米映画批評家協会最優秀作品賞 毎日映画コンクール日本映画大賞 毎日映画コンクール日本映画監督賞 (黒澤明監督) ブルーリボン賞作品賞 また、外国との合作に貢献した 故、古川勝巳日本ヘラルド映画社長に ブルーリボン賞特別賞 「銀河鉄道の夜」に対して、 毎日映画コンクール大藤信郎賞 |
ファミリー 女優フランシス クリープショー XYZマーダーズ マイ・ウェイ 卒業 ティーン・ウルフ ファンダンゴ スタア 未来は女のものである ローカル・ヒーロー ナイン・ハーフ エルム街の悪夢 ビギナーズ 片翼だけの天使 キングソロモンの秘宝 スペースインベーダー 黄色い大地 ショート・サーキット 蜘蛛女のキス マリリンとアインシュタイン 沙耶のいる透視図 海と毒薬 |
1987年 (昭和62年) |
社団法人外国映画輸入配給賞 (ヘラルドエース「蜘蛛女のキス」など) 「海と毒薬」に対して、 キネマ旬報第1位・日本映画作品賞 キネマ旬報監督賞(熊井啓監督) 日本映画ペンクラブ第1位 毎日映画コンクール日本映画大賞 毎日映画コンクール監督賞ほか個人賞 ブルーリボン賞監督賞 日本アカデミー賞特別賞(企画) |
海 外 買 い 付 け 話 |
ヘラルドが発足したての昭和30年代、外国へあっちこっち出かけたころは、いまの海外ブームなんてウソのような話ですね。日本人はほんのひと握りだったもんだ。あのころはね。ヨーロッパに滞在しているのはたいがい、大学の教授とかロールスロイスなんか車の研究にやってきた自動車メーカーの人とかでしたよ。 私の場合、もちろん映画の買い付けで海を渡ったわけだけどね。初めのころは、こっちは部下を連れずにひとりっきりだったんだわ。フランスへ行こうが、ドイツ、イタリアを回ろうが、どこでもひとりで商談をまとめるんです。 日中は食事する間もないくらい忙しいですよ。短時間に何本も映画を見なければいかん。映画ブローカーの試写室に入ってカフェ・オレを飲み、サンドウィッチをほおばりながらスクリーンを見続けるんだよ。目と手を働かせていると、舌の感覚がなくなるもんですな。食べるものが何の味もしない。おかしなもんだ。 そんなにしても、まだ時間が足りないんでね、まずフィルムの初めのほうだけ映してもらって、ラストの部分はとくに大事だから、そこを念入りに見ておいて作品の価値判断を下すわけだ。これ、"中抜き"といいましてね。外国にでかけたときはよくやったんだ。 相当やんちゃに掛けずリ回り、仕事しました。ヘラルドは業界では後発なだけに、先発の競争相手に負けないよう苦労の連続でね。あちらへ行っても、その先輩から邪魔されたり、いじめられたりで。「なにくそ」という気持ちばかりが先に立って、あせりもしますよ。そりゃあね。 それよりなにより、手ごわいのが商売相手の映画ブローカーですよ。みんなたたき上げの連中ばっかり、もうけさえすればいいというんで、おかしな作品をつかませようとする。「ヘラルド」といってものれんが通用しないからバカにしているところもあるんだ。 こっちが不利と判断したときはね、相手に向かって「ヤーメタ」といってやるんですよ。 |
宣 伝 と は ・ ・ ・ つ づ き |
ヘラルド発足から初期のころは古川社長が常に宣伝の陣頭に立って指揮していた。映画産業はすでに下り坂にありながら、テレビ、週刊誌など新しい情報産業時代を先取りして、過激な宣伝戦を展開している。 『カサンドラ・クロス』のときもそうだった。今度は東和配給の超大作「キングコング」との対決です。イギリス製作で、買値はたしか70万ドルだったはず。一方の「キングコング」はイタリアのディノ・デ・ラウレンティスがアメリカへ出て行って作った映画でね。うちもほしくて・・・。東和が買って「しまった」ですよ。それがまあくやしくてね。まず、うちの「カサンドラ・クロス」の倍、150万ドルは出したんじゃないかな。 この二つが正月興行でぶつかったわけだ。向こうが本命のグリグリ。こちらは対抗の○印。といっても、かなりの差はあったんですがね。本当のこといって横綱と小結くらい。 でも興行はうまくいったんですよ。「キングコングなにするものぞ。騒げ、騒げ」って、お祭りにしてまって、会社の者みんなにハッパかけて。世間はいかにも二本の映画が頭のせり合いをしているように見せかけたんです。 ヘラルド宣伝部はなるほどハデなことをやっている。「キングコング」の"片足を食いちぎれ"あるいは"下半身をぶっつぶせ"と過激な合い言葉で一本かぶりの超大作に立ち向かっていった。 世界で一番早い試写をローマで挙行した。ジャンケット(キャンペーン・ツアー)を組み、映画評論家、音楽評論家、ジャーナリスト、新聞記者を招待した。今でこそ驚かないが、この当時に外国映画の披露のため海を越えたというのは前代未聞。このジャンケットが初めてだろう。「カサンドラ」のあとにもヘラルドは「地獄の黙示録」のラッシュ試写。「野性の証明」のロケ取材を兼ねた総勢200人のジャンケットを組み、ハリウッドに出かけている。 さて、公開当日。なにやらその映画の一場面をそのまま見ているような白マスクに機関銃を手にしたのが二十人ばかり。「キングコング」公開劇場前に現れ、持った銃をバリバリと撃つマネー。新聞では「コングが撃たれた」と報道されたという。この「カサンドラ・クロス」が古川勝巳社長の陣頭指揮による、面目躍如たる代表例になった。 それでね、「カサンドラ・クロス」はヘラルドの興行史上六位(全国動員数427万人)になったんです。 「キングコング」がなければ「カサンドラ・クロス」の成績はあのときの五~六割りにとどまったと思いますよ。 『わんぱく戦争』は、もうモノクロ映画がなくなりかけていた時期の作品だが、そのモノクロ映画の特性を生かした新聞広告で成功させている。すっ裸の"わんぱく"がチンポコを片手で隠して、なにやら叫んでいる。なんとも愉快な図柄だった。これは読売新聞の映画広告賞に輝いた。 アイディア面ではこんなことをやっている。『戦争と平和』のとき。大作とはいえ、ヒットとは縁遠いソ連の作品では宣伝部長も頭が痛かったに違いない。「なにしろ原作を読んでも出てくる人物の名前がちっとも頭に入らない。ソ連はどうしてもなじみが薄いせいでしょうか。まるで覚えていない。」 そこで頭に浮かんだのは"豆本"を作ってみたらということ。登場人物の関係図やあらすじ、注釈なんかがその小さな本の中に要領よくまとまっている。もちろん一般の人に配る宣伝用だ。「まあ、これもひとつの観客サービス。やっかいだった人物の名前や複雑な筋立てがたちどころに理解できるようになった。」 芸術作か、娯楽作か。当然、そのフィルムの色合いにマッチした劇場を選ばねばならない。映画館の選択にも宣伝部がタッチしたことがあるという。 『チコと鮫』は思い切って帝劇で公開して当てている。古川社長自身は反対だったらしいが、当時の専務と宣伝部長が「夏休みは容器の大きなところが有利」と主張、これが通った。 キネマ旬報ベストテン入りしたパゾリーニ監督『アポロンの地獄』では「アクション劇場の東京・丸の内東宝に出せばいい」という社長に宣伝部員が猛然と反対した。「芸術映画として売る」と頑張った。 「あのときの社長、あの映画を残酷アクション映画に仕立てて売りたかったんでは」と宣伝部長がふりかえる。 結局上映館は芸術系の日比谷・みゆき座だった。 【昭和37年に戻る】 |
映 画 の 題 名 ・ つ づ き |
最近、映画の題名が原題そのままのが多くてね。 それも流行(はやり)といってしまえばそれまでだが、そろそろ考えねばいかん時期ではないかな。 私はね、昔はよく付けたんですよ。日本での公開題名をね。そりゃあ、頭をひねらんとなかなか出てこんよ。 ヘラルドができたすぐのころ『大酋長』というのがあった。原題が"シテング・ブル"といって、スー族の酋長の名前なんだ。こんな題名そのままじゃあ、日本ではなじみがないでしょう。 このあと、映画の題名にしばらく大の字を付けるのが増えたね。 うちでも「大運河」とか「大盗賊」とかね。大作に見せようという魂胆ですね。 パリのシャンゼリゼを歩いとったら、かわいい坊やが、裸で棒きれ持っている映画の看板が目に付いてね。これを買って『わんぱく戦争』と付けてみた。 原題は"ボタン戦争"で、服のボタンを奪いっこする遊びが向こうではあるんだね。それができんように、やんちゃグループが、すっ裸になって走り回る。ゆかいな映画でね。 日本題名は、週刊誌で"わんぱく"の言葉が目に留まって、それを拝借したんですわ。「チンポコ・マーチ」なんて、この映画の歌もはやりましたよ。 暗黒街や犯罪を題材にした映画をフィルム・ノワールというんだが、『骨までしゃぶれ』と付けたのがあった。これは原題が"冷たい怒り"だったな。 あとで流行歌に「骨まで愛して」というのが出てきて、びっくりしたな。うちのほうが早かったんだよ。 流行の先取りして失敗したこともありますよ。 ジョージ・チャキリス主演の『レッツゴー物語』(原題"2+2=6")は、もう四、五年あとならよかったのに早過ぎたね。 ゴダール監督の『女と男のいる舗道』(原題"生活を楽しむ"?)はいい題名でしょう。パリの街角に立っている女、娼婦の風俗的な感じが出せたと思ってますよ。 この題名、最近、どこかで見たようでしょ。アカデミー賞にもノミネートされた『女と男の名誉』(原題"プリッツ一家の名誉")のタイトルのもとになっているんだね。 映画の題名を付けるのは宣伝部や営業部の仕事になるわけだけど、いまの連中はよう付けん。工夫すればおもしろいし、ヒットにもつながるんだけどね。買い付けの帰りに飛行機の中で考えたものもあれば、羽田へ着いたとたん思い付いたのもある。題名の良し悪しが、けっこうヒットへの要因でもあるのですよ。 「映画の六〇%は題名でかせぐ」の信念を持っていた。 【昭和48年に戻る】 |
東 京 国 際 映 画 祭 |
第一回「東京国際映画祭」は昭和61年5月31日から6月9日まで、東京・渋谷で開催された。日本の映画界にとって画期的なイベントでした。これで、世界的な規模の映画祭が日本にも誕生したことになる。また同時に三十回目の「アジア太平洋映画祭」も開かれ、二つの国際映画祭が東京で並行して開催されたわけですね。 「東京映画祭」は、初めは筑波科学万博に花を添える企画で、通産省から「ぜひやってほしい」と映画関係者に依頼があったのです。これほど大規模なイベントは決して映画界だけの力では開けるもんではない。 映連(日本映画製作者連盟)の岡田茂会長がトップになって実現にこぎつけました。ほか外務省とか東京都、それに会場になった渋谷の地区の協力とかいろいろ後援してくれましてね。 外配協(外国映画輸入配給協会・古川勝巳会長)としても、もちろん協力し、主に海外関係の窓口となって活動したんです。 外配協の会長というのがけっこういそがしくてね。 外国の文化大臣が来日したとか、監督、俳優が使節団を組んでやってきたとか、大物プロデューサーが現れたとか、そんなときは出向いて行って会わねばいかん。 お互いの商取引とは別に、協会は協会としての儀礼的な務めがあるわけだよ。「東京国際映画祭」のときも準備段階からいろんなわずらわしい手順を踏む必要があったなあ。 ただ単に"国際"という言葉が付いていると思っては間違いでね。「国際映画製作者連盟が承認した映画祭」の意味を持っているんだ。ちゃんと権威付けがあるわけですよ。前もって開催の了承は得ているんだが、実際にカンヌまで出かけていってセレモニーに出席しましてね。 「世界の映画祭の仲間入りをして、東京で映画祭を実行することを宣言する」というふうにやるんです。 結局、「東京国際映画祭」は第二回が昭和62年に、以後二年ごとに定期的に開催される見通しです。回を重ねていくことで、カンヌやベニスのように名実ともに権威ある映画祭に発展していくでしょう。 <スタート時は隔年開催、1991年(平成3年)からは毎年開催されている> 【昭和60年に戻る】 |
叙 勲 の こ と |
私は窮屈なことは苦手なんです。 初対面の人ともざっくばらんに話したり、おつき合いするタチでね。社員はみんなそれを知っていると思うよ。それで勲章みたいな堅苦しいことを話するのはどうも嫌なんだけどね。 昨年秋(昭和60年)の叙勲で勲三等旭日中綬章を受けました。 十一年前(昭和52年)に藍綬褒章をもらってね。これは六十歳を超えるともらえる。それから七十歳を超えるとこれ(勲三等)でね。あれもこれも年齢(とし)がわかるので嫌だと逃げ回っとたんだ。結局、年齢がバレちゃった。 どうも勲章には年寄りというイメージがつきまとうからね。いまの世の中、七十歳だってまだまだ。新聞やテレビなんか六十歳でもう老人扱いしているんだからね。おかしいよ。 伝達式ですか?前日に通産省に出向いて勲章を受け取って、次の日、宮中の松の間で式に参列するのです。叙勲を受けた人たちがモーニング姿で勲章を付けて、そろって天皇陛下に拝謁します。 日本のほか外国政府からも勲章をもらったことがあります。イタリアから有功章・カバリエーレ章(昭和50年)。フランスから芸術文化勲章・シュバリエ章(昭和54年)の二つ。それぞれの国の映画配給に力を尽くしたことが認められたんでしょう。現在はともかく、両国から買ってきた作品はたしかに多かったからね。 まあ、勲章に関連して年齢のことをいえば、私が映画配給にかかわったのが四十歳を過ぎてからだからね。それからとっとこ、とっとこやってきた。いまにしていえば四十歳というその時期は決して遅くなかったと思っています。 人間なにか大きな岐路にさしかかったとき「よし、やってやろう」というハラができるものなんですね。 「古川勝巳氏の叙勲を祝う会」は昭和六十一年一月二十一日夕、東京・帝国ホテル光の間で開催された。 発起人・石田達郎(フジサンケイグループ最高顧問)岡田茂(東映社長)奥山融(松竹副社長)河野勝雄(日本興行協会会長)白洲春正(東宝東和社長)松岡功(東宝社長)の六氏(五十音順) 川喜多かしこ、三須君江、淀川長治、細身卓、阿久悠、篠田正浩、内海倫、武者滋、徳間康快、針木康雄、金子操、豊石雋一、福中脩、品田雄吉氏(順不同)ら三百五十人の映画人、各界代表者が参集した。なかでも、この種の会に出席することはまれな黒澤明監督が駆け付け古川社長に花束を贈って、なによりのハイライトとなった。 また、古川社長は席上、私財一千万円を東京国際映像文化振興会に寄付した。 昭和六十一年七月十二日、古川勝巳は従四位に叙された。 【昭和60年に戻る】 |
人
の
和 |
学生時代に始まって、この年までほぼ五十年。映画、映画で、もうそんな歳月が流れていってしまったんですね。その映画を自分の一生の仕事にして、なんとか一応の成果を収めてきたと考えているんです。 それは自分一人の力で成し遂げたことではもちろんありません。いつも私の側にあって、私の足りない部分を補ってくれる社内のブレーンがあり、また社外にも協力者があったからこそ可能だったといえるでしょう。 まあ、社内の人たちは当然としても、すでにお話ししたように「南極物語」「乱」など東宝の松岡功社長、フジテレビの鹿内春雄社長らと協力し合って成功にこぎつけたように、いくらでも感謝したい人の名前をあげることができます。 それにまた、"競争者"の存在も大きいと思うのですね。東和の川喜多長政さんはよきライバルであり、目標でした。 私が名古屋の地からヘラルド映画の名で本社を東京に移して以来、ずっと目標にしてきた大先輩になるわけです。川喜多さんの東和が、いわば外国映画配給の名門中の名門で、その東和とヘラルドという後発会社が現在、まがりなりにも一緒に歩み続けることができるようになったのです。作品の配給権獲得で闘い合い、そして配給作品の公開時には興行成績を競い合ってファイトをかきたててきました。 「瀬戸内少年野球団」のことでいいましょう。阿久悠さんの自伝的小説の映画化で、ヘラルド・エースが、YOUの会というこの映画を作るためにできたグループと共同で制作したんです。 阿久さんご自身がエースの原(正人社長)の所へやって来て、製作依頼をしたんだね。それを受ける側にも「映画をつくりたい」という情熱はもちろん、大事なのは"人の和"があってこそ、実現するといえるんではないかな。 決して一個人の力では事は成らない。一人一人の力なんてしれてますよ。必ず限界がある。会社のトップとして、自分の考えを知ってくれるブレーンづくり、仲間づくりがいかに大切かということですね。 他の業種だって同じでしょ。映画屋は映画だけ、菓子屋は菓子のことだけ考えているのでなく、他の世界を知り、見ることで、必ず我が身の発展のためのヒントが隠されていると思うんだがね。どうでしょうか。 いまは、東京に本拠地を置いて、映画の配給や製作をやっているわけだけど、まだなお名古屋の言葉が飛び出して、初対面の人にも「社長は名古屋の人でしょ」とわかってしまうんだ。外見ばかりか"三つ子の魂、百まで"で負けず嫌い、けんか早いのはちっとも直ってくれせん。 いじめられれば、即座にハネ返す。でも、こちらからはけっして手を出さない。それに人とつき合ったら、とことんやめてはいかんですよ。外国人に対してもそう。 そうだなあ、「キリング・フィールド」の英国人プロデューサー、デビット・パットナム氏はできた人物ですねえ。まだ四十歳をちょっとでたばかりでしょ。日本へ来るたんびに訪ねてくれるんだ。スコッチなんかさげてね。 彼の処女作「小さな恋のメロディ」がうちで配給して、よく当たったんです。「あのときはありがとう」といってね。まだ若いのにずいぶん活躍している。こちらも本当にうれしく思ってるのですよ。 人の結び付きというのは、どんどん広がり、深くなって、それがいずれ大樹に育っていくもんだと思うのです。 ◇ 「経営者としてなにがすごいかというと-」と八十河常務。一般論でいえば配給する10本の作品のうち4本はがっかりするのが普通で、現在はそれが7本、8本にもなる。うまくいかないケースが多いわけだが、初日にコケて、まるでお葬式のような状態のときでも社長は「悪かった、悪かった。こんどはいいものを買ってくるから。みんなよくがんばってくれた」と社員に励ましの言葉をかけたという。 初日までの過程では、社員にとってかなりうるさい面はあったのだが、いったん作品が出てしまったらその責任は社長にあるという考え方だった。 ◇ 「根本的に映画を愛していた人だった。このことは映画界広しといえど少ない」というのは(サム・)難波敏副社長。「作品のツボを見抜き、観客がどこを見てくれるかを知っていた」とも話す。それに決断の良さ、早さ。「地獄の黙示録」は日本のインデペンデント系配給会社がとても手のつけられない大作だったが、そのときでもわかるように。 難波副社長は勝巳社長と海外買い付けに出かけることが多かった。ヨーロッパ二回、アメリカ二回。ほぼ定期的に一年間に四、五回になる。 「メモをとっているわけではなく、記憶力は抜群で、五、六年前の作品でもちゃんと覚えている。これも映画好きだからでしょうね」。 勝巳社長自身は「カタコト」といっていたのだが、難波副社長によれば堪能かどうかは別にして、英語でペラペラやられても、ポイントはよくつかんでいました」という。 いつも語り口はていねいで必ず、"Please"をつける。にこやかで、ウケがよく、「Mrフルカワ、Mrフルカワ」と呼ばれ、まぎれもなく外国人にも好かれるパーソナリティーを持っていたという。 ◇ 映画、演劇方面に関係する新聞、雑誌記者たちから、これほど愛された人はいないのではないかと思われるほど、この人の周辺に記者が群がった。古川勝巳という人物が、とことん映画に惚れ、命を賭けていることを知っているからだろうが、それが、実に純粋で誠実に、記者たちの目に映っていた。古川勝巳は永遠の映画青年だった。 ◇ 古川爲之が語る、父勝巳のこと。高校(慶応高校)から東京に出た爲之にとって、家庭の父親としての接触は比較的少なかった。「だから父が東京に出てきたとき、食事に誘ってもらえるのが一番楽しみだったですねえ」と当時をしのぶ。なにしろ食べ盛りのころ、銀座のブルドックへ出かけ、メニューはステーキ。勝巳社長もステーキをついあっていた。高校時代、もうひとつ強く印象に残っているのが「日劇ミュージックホールに初めて行ったこと」だそうだ。慶応の円帽子、学生服のまま出かけたわけではないだろうが、父親と息子がかぶり付きに座ってストリップショーを見ている姿はなんともほほえましいではないか。 「いろんなことを具体的に教え込むタイプではなく、いつも「あゝ、いいよ」という言葉で応じてくれました。だけど、いま振り返ってみると、子供の教育には父なりの確たる考え方を持っていました」。「だからこうだ」とこまかい理由付けなんかしない教育法。 三歳違いの弟、博三さんも慶応高校へ。東横線・祐天寺駅のすぐ側に小さな家を一軒買ってもらい兄弟はすんでだ。そこに父・勝巳もよく泊まっていったという。 「父は祖母がやさしく、ひじょうに甘やかされて育っているのですね。自分自身に反省する部分もあって、私を東京にだしたのだと思うのですが・・・・。でも高校からとはびっくりしました」と爲之さん。また、いつまでたっても"やんちゃな"自分の父親像をよく知ったうえで、その裏で母(俊子夫人)にきちんとやらせていたところがあったのではないか、とも話す。 東京の大学(慶応大学)を出てから、自分の家、つまり名古屋のヘラルドへ戻って仕事をすると安易に思っていたところ、父から「外めしを食ってこないか」といわれた。大阪のコマスタジアムで三年。「阪急の小林一三商法を身につけて欲しかったのだと思う」というのが勝巳社長の願い。爲之にしても「大阪で五年」の思いがあったが、祖父・爲三郎会長の「早く戻してやれや」の言葉があり、三年で切り上げている。 名古屋に戻り、爲之は勝巳社長の片ウデとなって、経営者側に立ち十数年の歳月を経た。「前へ進むことしか知らなかった父とは仕事の上でぶつかることが多かった」そうだ。「ただ、ここ五、六年はそういうこともなく、私も世間を理解し、理論武装もできてきましたから」。「同族会社で社長と息子がぶつかるのは社員の戸惑いにつながり、弊害がありますが、ある時期から社長を立てて進むことを覚えました」と笑う。 「私はこまかい部分を見てしまうタイプですし、父はなんにでも好奇心があって、なんにでもどんどん手を出していく。自分のアイディアをすぐ実行に移す父に比べ、われわれの場合、新しい仕事には慎重になり過ぎて、よく調査してからでないと手を出せないことが多いですけどね」。こまかいところは苦手で前へ前へ必死に進んできた勝巳社長。「それにいいスタッフ、社員に恵まれたことも忘れてはいけないでしょう」と爲之新社長。 親子を離れた社長像は"内剛外柔の人"で、だれと会っても"やさしい人"、外部の人にも好かれ、それに"お坊ちゃん"の部分は最後まで持っていた。スタッフに恵まれたことは、この人の徳とともに運の強さともいえるだろう。 毎週、名古屋~東京の行き帰りには若者向きの週刊誌を手放さなかった。ミーハーの情報を得ることもさることながら、やっぱり気が若かったのだろう。六十歳になっても、七十歳になっても「物事をやわらかくとらえる若さ」があった。 ただ、健康のほうだけはそうはいかなかった。 「乱」のとき、爲之、博三兄弟は「父の映画人生の最後の記念碑になるかもしれない」と考えたほどだ。八年前(昭和53年)の大手術で片肺を切りとっている。三年後には完全によくなったのだが、七年過ぎたとき残った片肺が再び病に侵された。 「"乱"はヘラルドの屋台骨を揺さぶるような大きなカケでしたし、社長の健康問題とあいまって、息子としてなんとしてもやらせてあげたかった」。兄弟は連絡を取りながら、全力を挙げて大作の完成にぶつかっていった。 「七十一歳というと短いかもしれませんが、父の人生はやはり完全燃焼したのだと思います。好きな映画のために人に恵まれ、運にも恵まれて、幸せな人生を送ったひとだったのでしょう」と古川爲之は語る。 ◇ 最後の締めくくりのように「乱」は日本映画史上、いや世界映画史上に古川勝巳社長のメモリアルとしてさん然と輝いている。 |